1595年 6月、ポルトガルの宣教師が聚楽第を訪れます。宣教師の豊臣の跡継ぎについての質問に、秀次は「世継ぎは私だ」と答えたことを事実をねじ曲げて伝えられ、秀吉より詰問状が届きます。「宣教師に拾が実の子ではない、と言ったのか」などといわれのない内容にすぐさま秀次は手紙を返します。しかし秀吉は読まずに破り捨てられました。 詰問状の届いた2日後、「謡曲古抄」が完成し、天皇に献上したことも、秀吉に反感を買います。