《活動目的》
豊臣秀次は幼い頃から、りっぱな武士になるため、武道にはげみ、秀吉の良き後継ぎとして努力してきました。
そして学問が好きで大の勉強家でした。おじの豊臣秀長にもかわいがられ、秀吉から関白を受け継ぐほどの好青年に成長したのです。
そんな秀次がなぜ、切腹までさせられ、その上全ての側近や妻、子供までもむごい処刑にあったのでしょうか。
また、関白までなった人物なのに歴史的な資料が残っていないのも不思議です。
はるかに秀吉よりも武力と学識にすぐれており、周りの者全てを消さなければならないくらいの影響力のある人物であったため、秀吉は復讐を恐れたのでしょう。
後まで秀吉の言うとおりになり、自らの命を絶ったのは豊臣家の平和を考えた結果だと思います。戦国時代の武将は、本当のやさしさや麗しさを備えたら生き抜けないようです。
残された八幡の町を見る限り、戦うためのまちづくりではなく、町民のためのまちづくりがなされており、18歳の若さで都市区画ができるほどの人物で、また優れた側近がいた証だと思います。
秀次のロマンと愛が漂うまち、近江八幡。そこに住んでいる私たちが、自然や歴史や文化を愛し、学び、活用することによって、秀次の思いを受け継ぐことができるのです。私達はこの400年間伝えられてきた秀次の悪いイメージを変えていきたい、何百年かかっても、と思っています。
まず私達がこの町を「住んでいてよかった。一生暮らしたいまち」といえることで、歴史を変えることになると思います。
八幡山から見わたす私たちのまちには、祖先が築いたびっくりするほど多くの遺産が残されているのです。