《豊臣秀次 人物紹介》
悲運の最後を遂げた青年大名「豊臣秀次」
戦国乱世の世、「関白」にまでなり、ときの主人公から悲運の風に舞い散った青年大名。
十八歳で八幡山城を築き、「八幡山下町掟書」を公布し第一条に織田信長の安土のように、
楽市楽座を定め、自由商業の町にしました。琵琶湖をわたる湖上交通に目をつけて、
八幡堀と琵琶湖を結び町の発展を生み出していきました。秀次がこの町にいたのは5年でしたが、
町民本位のまちづくりが大きな遺産となり、八幡商人の発展の足がかりとなりました。
秀次は、おじ秀吉に高野山青厳寺で切腹させられ、一族皆殺しにされました。
太閣記などの歴史物語では、殺生関白、役立たずなどと、とても悪く書かれていますが、
本当に秀次は悪い人だったのでしょうか。
抹殺された秀次の後には、八幡山城を含め、すべてのものが消えていきました。
わずかに残る資料や、町民本位の町づくりをしている八幡の町並みを見ると、
決して悪人ではないと思うことが多くあります。
本当の秀次を知ってもらいたいと出版した「まんが豊臣秀次」より、
秀次の生涯を紹介します。
23ページ ≫ 1596年〜 |